昭和42年05月25日 朝の御理解
今朝ここに座らせて頂いて、五時の御祈念を待っておりました。何時も私は、五時前二十分位に出てまいりましてから、御祈念を待つので御座いますが、その時永瀬さんと何人かが参っておられました。時間を待っておる間に、昨日秋永先生が小郡の教会で、信徒幹部の方達の春季研修会に参りましてから、甘木の平田さんの言っておられる事。会長しておられますから、今日はこういうテ―マで話を進めて行こうと、言う様な事を刷った物を、十ヶ条ぐらいに色々書いて、それを配布された。
それを見せてもらったんですが、その一ヶ条、一ヶ条が本当にそうだなあと、自分の信念する事を書いて、皆んなにもどうでも分からせたいという一生懸命の願いというか、思いを書いておられます。その事を思い出させて貰ましてね、素晴らしい事だなあ、一つ一つの事が、皆んな本当の事だと言う風に思ったとたんにですね、大きなおいさみが あったんですよ、御祈念前にその事を改めて御礼申して頂きよりましたら。
御心眼にですね。やつと乗られる様な自転車に、ハンドルにこうもり傘が掛けてあるんですよ、こうもり傘も何本も骨が折れている様な、お粗末なこうもり傘が掛けてある、それを神様にお知らせ頂きましてからですね、本当に一生懸命で教会の事を思う、一生懸命で道の事を思う。 それが信心だと、自分の小さい事を考えてから、おかげでも考えてから、そんなものは信心ではないと、こう平田さんは断言されるんですよ、確かにそうだと思います、そう言う様な事はです。
ただ甘木の初代の大徳の先生について、それこそ子供を六人も亡くしておられるそうです、そして何回も財産も失くして、そして永年の間、親先生のお取り次ぎの間に間に、現在の様な財をなしている、おかげを頂いて、とにかく御用は社会の為に、お道の為にという事です。それこそ席の温まる暇のないぐらいに、あちらこちらにお話に行ったり、一生懸命お道の為に尽くされている方なんです。所があまりにも自分が精進努力して、是が本当だと、是が信心だと云う事をですね、自力というかね。
自分の一生懸命の精進努力によつて体験した事ですから、是が本当だと云われる事がですね、又本当だと思い込んでおられる事が、本当なんですけれどもですね、それは自転車、しかも神様からご覧になれば。歩いて行くよりもましと言う様な自転車、しかもそこから生れておるものは、信心の安心という事でしょうかね、傘というのですから自転車のハンドルにかけてある所の、こうもり傘というものは安心こう云われる。
降っても濡れんで済むし、照っても暑い思いをせんで済むし、それでもです、破れているかも知れない、骨が折れているかも知れない。と言う様な感じのこうもり傘なんです。そういう一生懸命な思いを、皆んなに分からせ様と、卓を叩いてです、お前達の様では、おかげにはならんのだと、こうしたらおかげが頂けるんだと、又は、事実自分がおかげ頂いて、おられる事を話されるけど。
他の者には全然分からない平田さんの頂いておられる おかげの所だけは、魅力は感じるけれど、信心は魅力を感じるどころか、ああいう強引な、ああいう、がむしゃらな言い方があるもんか、と言う風で受けは良くないというのが、事実ではないかと思います、誰も真似が出来んのですね。そこで合楽の信心を思うてみるとですね、成程私も皆さんと同じ様に、様々な所を通らせて頂いた。
がむしゃらな信心もさせて貰って、今日に至ったんですが、段々おかげを頂く様になってから十六年間言い続けて来た事、是は自力で一生懸命の精進だけで、体験からだけで生れた信心ではなくてです、椛目から合楽を通して頂いている信心はですね、是を表現するなら、自転車ではなくて自動車の様な物ではなかろうかと思いますね。椛目の信心は。合楽の信心は 神様から直接に頂いて。
その時その時に、是が本当だと言う事をです、こういう有り方であればおかげが受けられる、こういう有り方なれば御徳が受けられる、しかもそういう事になれば、傘をもって見せて下さるならば、立派な傘であろう、私の信心が立派というのじゃないのです。けれど私の頂いておる信心は立派なのです、だから是を皆さんが本気で行じる気になれば、そして私は平田さんの様に、がむしゃらにですね。
信心が分かりもしない人に、まだ幼稚園なら幼稚園児に、自分が高校生なら高校生であるのに、幼稚園児に高校生の云う事を分からせようとする様な行き方ではなくて、幼稚園は幼稚園なりに、小学校なら小学校なりに、ここでは解いて下さるのですよ、ですから幼稚園なりに、小学生なりに、中学生なりにです、私の伝えておる信心を、皆さんが身に付けておいでになるならばです。
どの様な素晴らしい、おかげになるであろうかという事を、今朝から思うてみたんです平田さんの信心と、私の信心を比較して、平田さんの信心は、歩くよりましという自転車に例え、私の頂いておる信心を自動車に例えて、大変失礼な表現で御座いますけれど、その歩くよりましの自転車ですらが、実を云うたら素晴らしいのですよ、皆んなが歩いて行けども歩ききらん、と云うのが普通じゃないかと思うのですよ。
自分の目的に何時まで経っても到達しない、ぐるぐる歩いて廻っておると言う様なのが、普通の人の信心ではなかろうかと思うのです、信心しよっても安心も頂きってないのが、事実ではないかと思うのです、その点見上げたものだな 素晴らしいものだなと思うのですね平田さんの信心は自分から練り出した信心なんです、自転車という事は自分で一生懸命で漕がねばならん、自分で一生懸命精進して作り出した信心、そしてそれが実際おかげ頂いておられるものですから。
これが本当だとお前達も教会の幹部じゃないか、幹部ともあろう者がこれ位の事が分からんかと、こうして信心しなくてはおかげにならんぞと、言う様な表現で話して聞かされるものですからそれを頂きましても、それは程度が違いますから行じきらんし頂ききらんというのが事実だという事です。椛目から合楽にこうしておかげを受けておる皆さんはです是は私が一生懸命精進したから。れて来ると言うだけの物ではなく神様から。
あゝあれよこうあれよお前はまだ小学生だからと、個人指導とでも申しましょうかを、受けておる様な御理解をです、日々頂いているのであるから、それを本気で自分の物にしていく精進をなさるなら、それは自動車に乗っておる様な。おかげが頂けるのではなかろうかそこから生れて来る安心というのはです、もつと増しなのです。喜びが伴った本当の有難い安心の傘を頂ける信心になるのではないだろうかと思う、人間が一生懸命努力して到達し得た信心、是も素晴らしい。
ようもあそこまで到達された物だと思う。成程平田先生といい、大事な方と皆んなが呼ぶのも、本当に云わなければおれないものを、受けておられ、持っておられるのだという事、所がそれは平田さんの現在の信心ですから、程度の低い者には訳も分からない、難しいのです、所が合楽の場合には、私のそうした信心と同時に、神様からヒントを頂くというか、神様から直接教えて頂くというか。 教祖の神様の教えておられる御教えをです、私共では気が付かない。
分からない広さ深さと言う物を、神様からお知らせを頂いて、皆さんにお伝えしておるのであるから、皆さんはそれを本気で、頂こうという気にならなければ駄目ですよ、例えば平田さんが、いろんなおかげを受けておっても、それも乗らなかったら、自動車を眺めておるだけでは、おかげにはならんので。どの様な場合でも、安心しておれる信心を頂かして貰う、もう一週間位前でしたかね、朝の御祈念の時に久富繁男さんの事についての、御理解を申しましたですね。
あれ程実意丁寧な信心をしておられる、あれ程、私の身辺にあってに細かい御用を受けておられる、しかも馬鹿程にというのは、言い方が悪いけれども、馬鹿程に素直にそれを直していかれておる。どこに、例え私がそれ以上に、無理に云う所は無い様で御座います、けれども神様から御覧になると、まだまだなんです、例えば平田さんの信心を本当なんだ、間違いないのだ。
けれども神様から御覧になると歩くよりもまし位の、自転車程度の信心であり、いくら信心のおかげを頂いておるというても、破れたこうもり傘位のものである様にです、久富繁男さんの信心は、椛目じゃ手本の様に云われる人でもです、そういう信心じゃいかん、必ずお気付がある。そのお気付けがありよる内に、しゃんとしなければ危険だぞ、危ないぞというて、久富繁男さんの信心を朝の御理解に聞いて貰った、弟の久富勇さんは朝参って見えるから、その事を伝えられた。
伝えられたけれどもそれを分かり易く云うなら、夜の信心的な信心から朝参り的信心にならなければいけないと言う事であった。夜の御祈念に参ってはならん、朝の御祈念に参って来いと云うのではないのです、朝と夜御理解を聞いても違うでしょうが、朝の御理解の雰囲気と、夜の御理解の雰囲気というのは、全然違うでしょうが、そういう雰囲気の変わって来る、信心にならなければいかんのだと、いう事を伝えさせて貰うたんです、夕べ秋山さんの所の宅祭で、終ってからお直会を頂いておる時でした。
久富さん兄弟が私の所に見えまして、只今弟が参りまして国雄、国雄というのは長男です、その国雄が久留米に野菜を出しにまいりましてから、単車に衝突こちらは大した事はないらしいのですが単車の人が怪我をしておる様で御座いますから、今からすぐ行きますといって出られた。もう私は胸がドキッとするんですよね、それとてもまだまだ御気付という感じなんです。それから御直会を頂いてから帰ってまいりました。
帰りの道すがらにです、久富繁男さんのところの横を通らせて頂きますから、その事をお願いしながら通らせて頂いておりましたら、電気が二つ見えるんですね、自動車は動いていますから、見ておる瞬間に一つの電気がポッと消えたんです、その時はっと思ったんですね、そしたら消えたんじゃないんです。通っておる所に丁度木の影か物の影になって、ひとつの電気が見えなくなっただけの事なんです、その事を今日の久富の事だという、お知らせを頂いたんです。
自動車の中でですから、いかにも電気が一つ消えた様にあるが、消えたんじゃない、ただ動いていけば電気が付いているのであると、ああおかげ頂いたなあと思って帰らせて頂いたんです。久富さんを御結界で待たせて頂いて居ましたら、お届けに見えました、お話を聞かせて頂くとです。相手は酔っ払い運転の常習犯でですね、もう道いっぱいになってやって来ておる、しかも反対側の方から出て来たらしいですね。
もうびっくりしてますよね、単車は倒れ人も倒れ、起き上がれない様にしてるのに、それはなんと、酒を飲んで動けん様になっておる、それで警察の方がその酔っ払いの人に、お前この人に断りを云えと云われたそうです。けれども、たとえ飲んであっても、どうであってもですね、そう云う事になると云う事なんです。問題は、それはお気付だから、それだけでも、もし、ひいて怪我でもさせたり、殺したりして御覧なさい、どういう結果になるか、矢張りこちらの方が悪い事になるのですからね。
それでおかげ頂いておるからいい様なもんですけれど。例えて云うならば、一週間なら一週間前に、神様から特別そう言う様に頂いておるでしょうが、神様から頂いておる事をです、疎かにせずにです、平田さんじゃないですけれども、自分の信心から、こうせな、あゝせなというのではなくてです、神様から直接に頂いてから、皆さんにお伝えしておるのであるから、あゝ本当だ、しゃんとせなと云う事になって、家族の者が。
信心がそこに、「お父さん今日は親先生が、北野においでになられますよ、と早く行って御用を」例えばそういう意味合いでの御用をされて、おられるのであるからです、そこの所を徹底し、朝参り的信心にもう一段精進をなさらなければいけないというのであるから、したって良かでしょうが、小さい繁男さんにしては、おかしなぐらいに我情に我欲にとらわれなさっておる様な事では、一の滝、二の滝はどうにか受け止めた、まあだ三の滝、四の滝がわからん。
御気付が続き出したら、だからこうして神様が教えて下さるから、是を氏子氏子に出来もせん様な事を、神様はひとつも教導もなさらなければ、仰る事もないと言う事ですよ、合楽の信心の素晴らしい事は、そう言う風に神様が、こうあれよ、こういう信心を進めて行けよと云うて下さっているから、その気になればおかげを落とさんでも済めば、又はおかげを受けられると云う事をです、
皆さん、本気で思い込んで頂かなければならんと云う事。そこから、本当の自動車に乗れる様な、立派なこうもり傘が頂けれる様な、信心の道が付いて来る おかげの道も付いて来る、お徳を頂いていける道も付いて来るんだと言う風に思うんですよね、そこのところを平田さんの信心と、比較対象する訳ではない、尊いけれども、それは自転車的なものですけれども、合楽の場合は、汽車か自動車の様な物。
同じ乗り物というても。それは違いますよね、神様から直接云うて下さるのと、人間が努力して分かったというのですから、そのくらい違いが御座います。それが本当にそうだと云う事を分からせて頂いてから、それを行じ、本当に素直に聞かせて頂こうと いう信心が必要じゃないでしょうかね、
どうぞ。